江戸連講

2018年9月講「歌舞伎鑑賞」

日 時:9月9日(日)10時半 歌舞伎座正面集合、11時開演(昼の部)
場 所:歌舞伎座
演 目:金閣寺、鬼揃紅葉狩、河内山
出 演:中村梅玉、松本幸四郎、中村吉右衛門他
会 費:会員・非会員共 6,000円

報告



2018年8月講「江戸の水運と河岸」

日 時:8月25日(土) 午後3時15分~5時
場 所:高井戸区民センター
講 師:菅原健二 氏
    東京都中央区立京橋図書館司書・地域資料室担当
    江戸(東京)の都市史研究家として有名、特に川に精通。
    主な著書「川の辞典 江戸・東京23区編」「川の辞典 多摩・東部編」
    「川跡からたどる江戸・東京案内」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

・江戸は現在の地面の4メートル下にある。江戸期は天災や火災があり、次第に埋もれていった。現在はアスファルトで覆われているため、堆積することはない。
・かって、江戸・東京の街中には、多くの運河や入堀が張り巡らされていた。
・関東大震災の帝都復興事業で基本的街区、道路、橋が決められた。
・東京オリンピックが開催された1960年代から最近の都市開発によって、水路と水辺空間が失われ街区が大きく変わろうとしている。
<江戸の特徴>
・臨海部の都市。水運は当時唯一の大量・高速輸送手段。
・低地の埋め立てによる都市建設は下水の処理が問題であり、そのための町割りが優先。
・江戸が全国の政治と軍事の中心となり、経済活動も活発化。大量の資材や物資の輸送が必要となり、運河と河岸地を利用した都市造りが行われた。

江戸湊の河岸


<江戸はこうして造られた>




・直営工事は徳川家臣団によって行われ、家康は江戸にいない。
・天下普請とは、必要な資金、資材、人員のすべてを大名の石高に応じて供出させて、工事・役務を行わせるもの。第一次天下普請では、西国の大名三十一家が命じられた。



・第二次天下普請は西国三十四家に命じられたが、途中、大坂の陣の始まりにより中止となる。
・その後、家康が他界し、日光東照宮造営、利根川・鬼怒川流域の川普請が、本多家他十二家に命じられる。
・第三次天下普請は、東北大名八家と黒田家・細川家の十家。



・第四次天下普請は、東北・関東・北陸の七十家。
・第五次天下普請は、百二十家。
<都市河川の誕生>
<上水道の整備>
・玉川上水の完成。新たに造成された市街地と江戸湊に停泊する千石船に給水することを目的とした。
<物揚場と河岸>
・物揚場は大名の敷地で国元からの資材などの陸揚げ施設として利用され、後に蔵屋敷・下屋敷などと呼ばれる。
・河岸は町人地に付属する荷揚場をいった。単に物流センター的な役割だけでなく、商人たちの取引の場としての市場の役割も果たす。



以上。     文責: 白石 徹



2018年7月講「子孫が語る榎本武揚」

日 時:7月21日(土) 午後3時15分~5時
場 所:セシオン杉並
講 師:榎本隆一郎 氏
    榎本武揚の玄孫。榎本家に伝わる武揚に関する諸々のエピソードを語っていただきます。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:華屋与兵衛 高円寺店(和食) 一人4,000円(飲み放題付き)

報告



①父は武家の株を買い幕臣となる。5人扶持55両。伊能忠敬の弟子。71歳で他界。
②配布資料あり。省略
③昌平黌に学も成績は良くなかった。当時の慣習の付け届けをしなかったからと思われる。蘭学に興味を持つ。1855年長崎海軍伝習所に入学。カッテンデイッケより高い評価を得る。1858年築地軍艦操練所教授。江川太郎左衛門の門下でジョン万次郎に英語を学ぶ。大鳥啓介はこの時の先輩
④配布資料「年表」参照。省略
⑤配布資料「佐藤家家系図」参照。省略
⑥開陽丸。1855年進水式。1856年完成。帰国。1857年武揚、艦長となる。1868年、明治元年江差沖で座礁。クルップ砲塔載のため重量オーバーでバランスを崩したといわれている。舳先に三つ葉葵が付いていた。開陽とはオランダ語で「夜明け前」の意。
⑦略
⑧敗戦を前に、攻撃方の大将の黒田清隆へオランダで学んだ国際法の書物「海律全書」他、重要な書物を贈る。
⑨略
⑩2年半入牢。牢名主であったという。
⑪講の当日持参。懇親会の折、ジャンケンで一人の会員へ渡された。
⑫黒田清隆が頭を丸めて西郷へ除名嘆願。最初は拒絶されたが、黒田の熱心な嘆願による受け入れられた。
⑬放免後、北海道開拓使。マリアブス号事件発生。駐露全権公使となり「樺太・千島交換条約」を成功させる。公使となるため海軍中将という肩書が作られ付与された。
⑭略
⑮略
⑯酒好きで、様々な処にエピソードを残している。
⑰吉祥寺
⑱略
⑲略
⑳略
㉑隅田川と東京農大世田谷キャンパス内にあり
その他。 家紋は丸に梅鉢。
*ご子孫ならではの榎本武揚の貴重なエピソードをお伺いすることができました。まことに申し訳ないことですが、筆者が次の懇親会の段取りのために席を外すことが多く、その他多くのお話を聞き洩らしており、欠落した内容が多々ありますことをお詫び申し上げます。
特に、後半の流星刀のお話は、写真を示しながらの極めて興味深いお話で、誠に残念で、ご報告できないことは大変申し訳なく思っております。出席の会員の方で、上述の報告内容に付け加える情報をお持ちの方は、是非、江戸連理事の山本さんへ連絡して下さい。





以上。    文責: 白石 徹



2018年6月講「貝原益軒「養生訓」(その2)~認知症は克服できるか」

日 時:6月9日(土) 午後3時~5時
場 所:ハロー貸会議室湯島御徒町
    文京区湯島3-35-9 湯島白川ビル3F
講 師:謝心範 氏
    武蔵野学院大学・大学院・教授
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:中華小皿居酒屋「雅亭」
    食べ放題、飲み放題、一人3,500円

報告

・講師 謝心範先生の履歴と活動
 1953年 上海生まれ
 1981年 上海師範大学卒業
 1987年 来日
 1991年 (株)協通事業設立。代表取締役、社長就任
 1997年 日本国籍を取得
 2016年 武蔵野学院大学博士号取得。学位論文:「養生訓」の分析研究―漢籍の影響
 2016年 同大学、大学院教授就任

 漢方養生食品を開発、米国、欧州、カナダ、中国、日本で合計7件の特許取得。
 現在も認知症に関する漢方製剤に関して特許出願中。
 1999年~2013年 日本及び海外の肝臓学会、癌学会等に於いて40回以上の交流と発表。
 2002年~2005年 特に肝硬変、非アルコール性脂肪肝炎に関する研究論文は日本肝臓学会に於いて2度の
          優秀賞を受賞。
 2006年~2013年 学術専門誌への掲載歴16回
          アメリカ国立医学図書館のデーターベースに於いて15件の研究結果が世界に公開
          されている。
・著書
  「驚異の田七杜仲パワー健康法」 廣済堂出版 平成8年
  「真・養生学」 広葉書林 平成9年
  「日本で買える本場中国の漢方薬ガイド」 講談社 平成10年
  「C型肝炎=肝臓ガンの時代は終わった」 海竜社 平成12年
  「肝臓を元気に」 漢方養生研究所 平成16年

・貝原益軒の経歴
  1630年   黒田藩祐筆、貝原利貞の子として誕生
  1655年25歳 長崎へ2度遊学
  1656年26歳 江戸へ、柔齊と号し医者を志して剃髪
  1658年27歳 京都へ遊学。35歳まで儒学・医学の勉強、著名な学者の教えをうける。
         中でも長崎出身の朱子学者で医者の向井元升の教えを受けた。
  1665年35歳 江戸で正式な藩士の待遇を得る。「黒田家譜」「筑前国続風土記」等を著す。
  1668年38歳 京都へ淋病の治療。下痢・喘息の発作には継続して悩まされる。
  1669年39歳 江戸へ戻る。髪を伸ばし名を九兵衛と改める。秋月藩の友人医師、江月道達の姪、
         のちの東軒夫人(17歳)と結婚。
  1700年70歳 隠居
  その後も85歳で亡くなるまで、幅広分野にわたって著作の整理、完稿、出版を続けた。
 「大和本草」(全16巻、付図2巻)
  益軒生涯の成果ともいえる80歳の時の著作。
  中国・李時珍の「本草綱目」から720種、他の本草書から200種、日本固有種358種など1,362種の
  自然物が引用され、独自の方法で配列されている。
 「養生訓」
  亡くなる前年84歳の時の著作。
  中国の伝統薬学や養生文化関係の文献をまとめ再整理をして、庶民でも読めるように、平易な和文で
  書いたもの。医薬学の専門書ではないにもかかわらず、医学・薬学の内を多く含み、また、儒学・道学
  や仏教の視点、さらに生命と健康、社会道徳と倫理に拘る価値観のなども解説、そのうえ健康な生活を
  守る為の効果的な作法や行動、有益な食材の使用方法、そして心の働きが健康のために重要であること
  まで、医薬学の領域を超えて、こと細かに述べられている。
・生活習慣病
  加齢による発病の側面からの「成人病」の概念から生活習慣重視への視点の転換。
  現段階で生活習慣と疾病との関連が明らかになったものは、食習慣、運動習慣、喫煙、飲酒である。
  ウイルスや細菌による伝染病ではなく、また生活習慣には個人差がある。
・認知症とその予防の可能性
  ・米国の大手製薬会社が「認知症」の研究開発から相次ぎ撤退している。しかし人口の高齢化に伴い
   患者の増加が予想される中、新薬開発への期待は高まるばかりだ。
  ・米食品医薬品旭(FDA)はこれまでに6種類の薬を承認したが、根本的な治療薬は開発されていない。
   一方、ベンチャー企業の活動に期待する動きもある。
  ・日本では漢方薬「抑肝散」が神経症、うつ病、不眠症、幼児夜泣きなどの適用に使用されていること
   に注目し、肝機能改善に効果のある漢方養生食品が認知症の治療につながる可能性を検討した。
  ・田七及び杜仲を含む漢方養生食品について脳細胞への影響と使用者への効果を調査
  ・ニュフィラメントの発現、及び神経細胞の神経突起の伸長を含む神経細胞の分化・成長に有意な効果
   を有する。したがって認知症もしくはその心理症状、又は神経変性疾患の予防もしくは治療に優れた
   効果を有することが期待される。
  ・使用者への効果は、46歳以上の男女62名につて調査。EX-1とEX-2(詳細略)の両方の服用では3年
   未満でも効果の発現がみられた。また高齢者の運転免許統計による高齢運転者で、田七及び杜仲を
   含む漢方養生食品の利用では認知症が疑われる人は見られなかった。さらなるデータの蓄積と分析を
   実施中。
  ・最後に、上述の分析に基づき開発した漢方薬「養脳力」の紹介とサンプルの提供があった。
以上。  文責:白石 徹



2018年5月講「江戸の街はどのように拡大したのか」

日 時:5月13日(日) 午後2時~4時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:黒田涼 氏
    早大政経卒。大手新聞社勤務後作家デビュー
    著書「江戸城を歩く」「江戸の大名屋敷を歩く」「江戸の神社・お寺を歩く」
    「東京の名所今昔ものがたり」他多数
    テレビ・ラジオ・雑誌などで活躍する人気「江戸通人」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円

報告

 黒田涼氏は、大手新聞社勤務後作家デビューされ、江戸に関する多くの著作を出され、テレビ・ラジオ・雑誌などで活躍される人気「江戸通人」である。したがって黒田氏は、研究者としての立場ではなく、作家としての立場から江戸を語られた。

1.江戸は当初、本当に寒村だったのか? 違うのではないか。
 当時、江戸には既に、浅草湊、江戸湊、品川湊と3つの湊=港があった。江戸から北へ行く道があり、隅田川を渡るので、古くから浅草に湊があった。次に品川湊は、太田道灌の根拠地は御殿山にあり、品川に湊を作った。
 これが道灌の財力の基になったと考えられる。この地には鎌倉時代創建の寺があった。江戸川区長島に古い寺が残っている。江戸川沿いに渡し場があったと考えられる。江戸湊は何処か?日比谷入江は昔は深かった。湊があったと考えられる。当時、石神井川が不忍池からお玉が池を経由して江戸湾に注いでいた。そしてこの川下は円覚寺の荘園があり繁栄していた。家康の頃は浅くなっていたので埋め立てて、江戸湊を日本橋へ移した。
 江戸城のあったところは、局沢(つぼねざわ)と呼ばれ、16もの寺があった。江戸湊の繁栄があり、1,000人規模の集落があったと思われる。戦国時代からみれば、寒村というのは言い過ぎで、家康の功績を大きくするために寒村と言ったと思われる。
 

2.家康は秀吉にはめられたのか?
 鎌倉や小田原には港がなく、大量の物資をさばくことができない。相模湾は大きな津波が来るが、江戸湾は高潮はあるが津波は来ないし、後背地が広い。江戸湾には利根川が注いでおり、北条の旧領地総てに速やかに移動でき、戦後の北条氏の残党平定に有利である。家康は小田和城の東側や北側を攻撃する布陣になっており、秀吉にとっては、家康を三河から切り離すというメリットはあるが、かつて北条と同盟関係にあった家康が北条と手を結ぶと極めて危険である。秀吉は家康を信頼していたとみられる。また、家康にとって、三河から切り離されるということは、拠り所を失った家臣の反乱を防ぐことができるということであり、領地は120万石から250万石に増え、新田開発を進めて行けば将来性のある最適地と考えたであろう。恐らく家康は喜んでいたであろうが、家臣はそうでなかったと思われる。


3.江戸は本当に100万都市だったか?
 江戸の人口数値は農民と寺社地の人口であり、武家の人口は含まれていない。定住人口ではないとみられたと思われる。1位は北京である。武家の人口を加えると110万~120万人ではないか。江戸に入るコメの量は140万石である。一人年間一石を消費すると考えると140万人であるが、飲み水の普及度合いから推定すると、100万人を超えるのは無理があると思われる。


4.家康の都市計画
 徳川3代ぐらいまでは、文字による記録が残っていない。5代綱吉ぐらいから制度、記録がハッキリしてくる。したがって、家康がどのような都市計画を考えていたかは不明である。家康は外堀の中まででしか考えていない。その中を大名、旗本、町人できちんと配置している。これは城下町を堡塁と堀で囲う「総構え」という方式で小田原城が始まりで非常に堅固な城塞都市となっている。したがって、秀吉は城攻めはせず、兵糧攻めに徹した。小田原攻め以降、各地の大名はこの総構えを採用するようになった。
 参勤交代が制度化されるのは3代家光の時代で、家康の頃は想定されていない。参勤交代は幕府が大名の財政圧迫を目論んだもの、という説は嘘。幕府は度々、参勤行列を華美にするなという通達を出しており、華美にしているのは各大名の意地の張り合いである。費用が掛かるのは江戸の屋敷の維持費である。江戸市中がギュウギュウ詰めになったときに、明暦の大火が起きる。その後、総構えの外に街を拡げる。御三家、大大名は外堀の外に、また、寺や神社は江戸防衛の意味もあり、総構えの外の街道沿いに集中的に移転させられた。日比谷稲荷が新橋と八丁堀にあるのは、もともと日比谷にあったものが移転させられたからである。
 

5.江戸の発展
 幕藩体制は、中央集権体制ではない。しかし、参勤交代によって全国の大名が毎年大量の家臣を連れて江戸へやって来る。どのくらいの人数がやって来たかはデータがなく不明であるが、彼らの生活を支えるための町人の数も、それに伴って増える。また、全国から江戸への流通網が整備され、各地に特産物が生まれ、江戸へ送られる。江戸は一大消費都市であり、娯楽・観光・売春都市でもある。
 新田開発によって各地で耕地面積が増えるが、人口は全国で3,000万人を超えたぐらいで頭打ちになる。これは新田開発で土砂が流れ、海岸に砂浜が沢山できるようになり、幕府は自然保護に方針を転換、新田開発を止めた。結果、各地で食えない溢れ者が、江戸へ流れ込んでくることになり、江戸の人口はますます増えた。
 江戸図で朱引きされている枠内が行政区域で、墨引きされている内部が町奉行の管轄範囲内である。
 明治維新になって、武家が江戸から引き揚げ、町人だけになったため、江戸の人口は激減し、60万人ぐらいになった。


以上。  文責:白石 徹

黒田涼氏著作集
 「江戸城を歩く」祥伝社新書、「江戸の大名屋敷を歩く」祥伝社新書、「江戸の神社・お寺を歩く 城東編、城西編」各、祥伝社新書、「東京名所 今昔ものがたり」祥伝社黄金文庫、「大軍都・東京を歩く」朝日新書、「おれの細道 江戸東京狭隘路探索」アートダイジェスト社、「美しいNIPPONらしさの研究」ビジネス社、「江戸の街道を歩く」祥伝社新書、「江戸・東京の事件現場を歩く」マイナビ出版、「江戸東京の幕末・維新・開化を歩く」光文社知恵の森文庫



2017年度総会および4月講「江戸遊里の記憶~遊里の光と影」

日 時:4月21日(土)
    14:00~15:00 総会
    15:15~17:15 講「江戸遊里の記憶~遊里の光と影」
場 所:高井戸区民センター 第1・2集会室
    井の頭線高井戸駅から徒歩3分
講 師:渡辺憲司 氏
    自由学園最高学部長
    著書「江戸遊里盛衰史」「江戸遊里の記憶」他
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

 渡辺氏は行動の人である。資料をじっくり読みこんでから書くのではなく、考える前に走り出す。変体仮名は難しく、向き不向きがある。漢文ならば読めるだろうと考え、山鹿素行から研究活動を始めた。そしてすぐに平戸へ調査に行った。そこの松浦資料館で松浦静山に接し、松平定綱やその周りの学者・俳人などを調査することになり、最初の学会発表「山鹿素行と松平定綱」となった。博士号は九州大学で取った。全国の県庁所在地の図書館を訪ねて回り、博士論文「近世大名文芸圏研究」にまとめた。その際に、行く先々で、昼間は図書館、夜は昔の遊郭跡や料理屋を巡り、その後の遊里研究につながることになった。
 下関は遊郭の発祥の地である。源平合戦の壇ノ浦の戦いで安徳天皇が亡くなり、残された官女たちが身過ぎのために、最初花を売っていたが、それがやがて身を売るようになっていった、という伝承がある。今でも下関では、安徳天皇の陵がある赤間神宮まで歩く太夫道中がある。最初の焼香は遊女がやる。下関市史を出すというので、民俗学としての遊女についての執筆を頼まれたのがきっかけで、遊里の研究に入ることになった。下関では、明治天皇の巡幸の時に接待に出たのは遊女だったという。とにかく面白くて、全国の遊郭を訪ね歩いてみるという一念発起。七夕祭りは遊郭の行事、遊女が自分の好きな人に会いたいという思いを短冊に書いて竹笹に吊るした。しかし、仙台の七夕ではそれはない。処によって違うようだ。
 渡辺氏が遊里研究やその話をするときに大事にしている立ち位置がある。それは廊噺は「辛からんことを人情深く」話すこと、即ち「言葉やはらかに、苦界勤めの、つらからん事を、人情深くはなすべし」ということである。氏の著書である「江戸遊里の記憶」の中に次の言葉がある。遊里の悲惨を直視しなければならない。ノスタルジーを感じたり、安易な人情など無用である。ましてや、遊里の文化に一種の憧憬を持つなど、非道である。-中略― 直視とは光を当てることである。そしてその光は影を生じる。遊里の持つ根源的な苦痛に光を当て、その影を追ってみたいと思ったのである。その陰の底に、現代の我々に訴えかける遊里の記憶があるはずである、と。
 人に嫌われる三要素は、相手の過去を聞くことである。即ち、どこの生まれ? なぜ一人なの? 母親は元気? 遊郭では身元を隠し、客も遊女も平等である。 遊郭といっても一律に語ることはできない。場所によって異なる。下関の遊女は足袋を履く。吉原と深川では異なる。吉原の中でも遊女と芸者とは違う。遊女は床の間を背負って上座に座るが、芸者は下座に座る。しかし全国そうだとは限らない。
 一律にどこでも遊郭があったとは言えない。金沢と米沢では、一時期遊郭はなかった。また、殆どの城下町の中には遊郭はなかった。近代、明治以降になってゴチャゴチャになった。遊郭は人の多い処にできる。例えば、軍隊や大会社のある地域など。しかしそれも状況による。旭川に連隊ができたが、連隊長が嫌って遊郭はできなかった。また北見ではキリスト教が強くできなかった。他に遊女の多い処として港が挙げられるが、鉱山も見逃すことはできない。遊郭は人の集まる処にできたため、江差追分やハイヤ節などは、遊郭が伝えてきた。
遊郭には学校(女紅場)があり遊女を教えた。また病院もあった。権力のコントロール下にあった。遊郭の門は「オオモン(大門)」と呼ばれた。これは公式の門に対する呼称。これに対して神社や寺の門は「ダイモン」という。
 子供を公娼にしないために、女の子が生れたときに戸籍に入れないことが、行われていた。なぜならば、公娼になるには戸籍が必要だったからである。 俳句に聞き句というのがある。例えば、芭蕉の句に-秋深し隣は何をする人ぞ-は、孤独な独り身の寂しさか、懐かしく感じるのか両説ある。松尾芭蕉の弟子の其角の句に-闇の世は吉原ばかり月夜かな-という句がある。これはどこで区切るかで意味が違ってくる。-闇の世は、吉原ばかり月夜かな-、-闇の世は吉原ばかり、月夜かな-、と吉原を見るとき常に二面性を見なければならない。レッテルを張ってはならない。
国によって素晴らしい遊女とされる性格が違う。中国-侠、韓国-義、日本-情。
 以上、渡辺憲司先生によって、辛からんことを人情深くお聞きすることができました。



2018年3月講 日帰りバス旅行「江戸と房州・船文化を探る」

日 時:3月17日(土) 午前9時~午後6時
集 合:午前9時 JR東京駅丸の内北口改札口前
会 費:会員6,000円、非会員6,500円(昼食代込み)
定 員:45名(江戸連会員及びその家族)
コース:東京駅-東京湾アクアライン・海ほたる-木更津漁港(昼食)-菱川師宣生誕地・墓地参拝-源頼朝
上陸・再起地見学-館山歴史博物館・渚の博物館-洲崎神社-白浜フラワーライン経由-安房神社-
野島崎灯台・白浜海洋美術館-帰路・東京湾アクアライン-東京駅
案内人:新実氏
昼 食:DSC_0020

報告

 東京駅を予定どおり出発一路房総へ。君津でトイレ休憩、さらに金谷でトイレ休憩すると共に現地ガイドさんが同乗、布良埼神社及び小谷邸へ向かう。当地で二組に分かれてそれぞれを見学。
布良埼神社
 安房神社の祭神天太玉命の孫である天富命を祭神とし、阿波神社が祭殿で布良埼神社は前殿だったと伝えられる。江戸時代までは蔵王権現と呼ばれ、明治初年に布良埼神社と改名した。


小谷邸
 小谷家は江戸期から昭和初期まで続いた上層漁家。分棟型民家の系統を引く建物。明治37(1904)年に洋画家の青木繁が2ヵ月間逗留した建物で、重要文化財「海の幸」を構想したことで知られている。青木繁の作品が幾つか展示されている。
 

次に洲崎神社に向かう
 当神社は天太玉命の后神を祀る式内大社。神武天皇の御宇、天富命が御祖母神天比理乃*命の奉持された御神鏡を神霊として洲辺(すさきべ)の美多良洲山(みたらしやま)に祀られたことに始まる。
 鎌倉時代の治承4(1180)年に安房に逃れた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。
 

 

昼食「漁師料理たてやま」一人1,500円のキンメダイの刺身の入った海鮮丼


 昼食後、すぐ裏手にある「大嚴院」に向かい、境内にある「四面石塔」を見る。
1642(元和10)年、雄誉霊巌上人が建立、高さは219㎝。東西南北の各面に、朝鮮ハングル・中国篆字・和風漢字・印度梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。特に東面の「ハングル字形」が朝鮮国第4代王世宗が1446年に公布したものの短期間で消滅したという創生初期の「東国正韻」式の字形といわれ、韓国にもない非常に貴重なものである(新実氏資料より)。
 

次に向かったのは「渚の博物館」
 

 

菱川師宣博物館と師宣の墓
 

アクアライン・首都高を経由して東京駅着19:00。



2018年2月講「明暦大火前の古地図から見えてくること」

日 時:2月24日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:芳賀啓(ひらく)氏
    出版社社主、地図研究家、エッセイスト、東経大客員教授
    著書「古地図で読み解く江戸東京地形の謎」二見書房
      「デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖」講談社
      「地図・場所・記憶」 けやき出版
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「天豊」を予定。3,500円/人

報告

・太陽は直径10万光年の銀河系の中心から28千光年の位置で時速70万kmのスピードで一周約226百万年を公転している。
・「言葉」がなければ地図といえない。地図は表現ではなく認識である。
・中央(為政者)がいる場所で時間の区切りをしている。江戸時代→東京時代
・「伊能図」は海辺図・経路図である-白い処が多いが形は正確
・これに対して「国絵図」-幕府が国持大名に作らせた正式な地図
・最新版以前の地図は「古地図」とする。
・明治初期の測量図は江戸と現代を繋ぐ役割を持つ。
    1884年測量-1886年製版-18887年出版
      
    点線は神田上水の地下水路(木樋)
    #は木樋につながる井戸
    建物の囲いの中が斜線は木造、クロス線は煉瓦作りまたは土蔵
    色の濃いものは官または共有、薄いものは民間
    点線を青色鉛筆でたどった。江戸時代網の目のように水道が完備されていたことがわかる
・江戸時代に作られていても古地図といえないものがある。
・江戸大絵図・江戸切絵図などほとんど複製品や模写品である。
・復刻版と記され、原図についても記載があるものが正しい。
・「江戸学事典」-江戸の項目存在せず。
・「国史大事典」-第2巻に江戸図の項目あり。
・「古版江戸図集成」全5巻-1959年 蘆田伊人、真山青果
・「江戸切絵図集成」全6巻-斉藤直成
・「明暦江戸大絵図」-三井文庫
    狩野派絵師による。明暦の大火前後を読み込む。江東を描いた最古の地図
      
    江戸切絵図は江戸の住宅地図ではない。将軍に仕える家臣団の配置図
    それが民間に流れ、そのまま使われた。
    道路に町の名前が書かれている-道路がその地域のコミュニティであった。
    御殿-ごてん、将軍が鷹狩の時に使う場所
    木ヤの庄兵へ-江戸に材木を入れている商人
    長崎平蔵-末次平蔵、貿易商、キリシタンから転向、弾圧に加わる。
・「寛永江戸全図」
    測量図。緑のグラデーションが崖を表し、地形が良くわかる。
    高田馬場、中野、新宿、青山、麻布など
以上



2018年1月講「隅田川七福神巡り」

日 時:1月6日(土) 午後1時~4時(予定)
集 合:午後1時 東武東京スカイツリー線(北千住~浅草間)
   「堀切駅」1番線(北千住方面行き)改札口
差 配:圓山氏、松本氏
コース:堀切駅~多聞寺~木母寺~白鬚神社~百花園~長命寺~弘福寺~三囲神社~東京スカイツリー駅
   (約5.5km。2時間半~3時間)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円(百花園の入場料込み)
懇親会:「塚田農場東武浅草駅前店」16:40頃~2時間。飲み放題付き4,000円/人

報告

隅田川七福神巡り 地図


ご集印色紙




2017年12月講「江戸の芸つくし」

日時:12月9日(土) 午後1時半~8時
場所:堀切菖蒲園静観亭
企画:13:30~14:45 投扇興(自由参加、無料)
   14:50~16:35 12月講
           かっぽれ:鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元、会員)
           江戸紙芝居:寿々方(江戸がたり家元、会員)
           謡 曲:圓山代表以下会員有志
           落 語:花伝亭長太楼師匠(会員)
   16:35~17:30 忘年会会場準備中マジック:三宮会員
   17:30~20:00 忘年会
会費:5,000円、講のみ参加は2,000円
定員:講65名、忘年会45名

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2017年12月講 「江戸の芸つくし」 投扇興 (親善試合)
12月9日、場所は堀切菖蒲園静観亭、例年通り「江戸の芸つくし」の前座として皆さんに楽しんでいただきました。
参加者15名、始めての方、始めてではないけれども1年ぶりという人が5名、残り10名は投扇連の常連でした。
親善試合とは言え、プレイされた皆さんの表情は真剣でした。
 2ヶ月に一度何年も練習している常連が初心者に負けたら。。。と心配する向きもありましたが、準決勝に残ったのは宮川さん、白石さん、佐藤さん、仲下の常連4名。
投扇興は実力以上に運と言われますが、やはり神様は練習に汗を流した努力に報いてくれました。
決勝は常連に加入したばかりの宮川さんと2011年8月の投扇連発足以来、練習通いをしている仲下の対戦。
「プロとアマの対戦だ」などとうそぶいた仲下の言葉に発奮した宮川さんがいきなりの早蕨( さわらび)、焦る仲下に高得点の技は出ず、試合は最後の10回目にもつれ込み仲下が須磨で7点を出しかろうじてリード。
最後を7点以上の技を出せば優勝と言う場面で少し緊張した宮川さんの一投は惜しくも行幸(みゆき)5点!
24点対23点の1点差で勝負が決まりました。手に汗握る一戦でした。
十分楽しみ前座の役割を果たし、鈴乃家梅奴さんの「かっぽれ」にバトンタッチしました。

1.かっぽれ 鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元)
   演目「奴さん」「深川」「かっぽれ」
    かっぽれ 鈴乃家梅奴

2.謡曲 謡曲連衆(圓山稔、長谷田一平、一坂洋三の各氏)
   演目「隅田川」
    謡曲 謡曲連衆

3.落語 花伝亭長太楼
   演目「二番煎じ」
    落語 花伝亭長太楼

4.忘年会
   37名の会員が参加。



2017年11月講「紀州徳川家の400年」

日 時:11月11日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:徳川宜子(とくがわことこ)氏(紀州徳川家19代当主)
内 容:藩祖徳川頼宣公が元和5年(1619年)紀州へ転封されてから来年で400年を迎えます。
    紀州徳川家の歴史から現代につながる想いを19代当主徳川宜子さんが語ります。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:自由参加。一人3,500円

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・紀州徳川家について
   徳川家康の十男である徳川頼宣が元和元年に(1619年)に55万石を拝領して紀州藩主として和歌山城
  に入城したことで始まる。
  初代・頼宣-2代・光貞-3代・綱教-4代・頼職-5代・頼方(八代将軍吉宗)-6代・宗直-7代・宗将
  -8代・重倫-9代・治貞-10代・治寶-11代・斉順-13代・慶福(十四代将軍家茂)-14代・茂承
  -15代・頼倫-16代・頼貞-17代・頼韶-18代・剛-19代・宜子

・江戸に残る紀州藩ゆかりの地
  上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷があった。火事により所替えがあり、江戸市中に30数か所屋敷跡が
  あった。
 1.竹橋邸  千代田区千代田
    吹上御所近く。元和元年初代頼宣が紀州へ行く前に拝領。
 2.赤坂邸  港区元赤坂
    1603年完成。その後9回火災にあっている。中屋敷から上屋敷に変更。明治4年まで使用。皇居火災の
    折に明治天皇へ献上された。
 3.麹町邸  千代田区紀尾井町
    上屋敷。明暦の火災の後明暦3年(1850年)に拝領。現在の赤坂プリンスホテルの地。屋敷裏に清水が
    湧いていて清水町の地名を今に残す。
 4.千駄ヶ谷邸  渋谷区千駄ヶ谷
    下屋敷。江戸崩壊後、天璋院、家達公が住む。
 5.木挽町邸  中央区銀座
    蔵屋敷。江戸初期に拝領。現在の銀座2丁目の東半分を占める。
 6.松濤邸  渋谷区松濤
    下屋敷。のち鍋島藩に譲る。現在松濤公園。
 7.築地邸  中央区築地
    蔵屋敷。1864年築地ホテルとなる。奇しくも、この地に石橋徳川設計所で築地市場脇公衆便所を
    設計、2014年グッドデザイン賞を受賞。
 8.蛎殻邸  中央区日本橋蛎殻町
    下屋敷。築地が手狭という事で同時期に拝領。

・紀州徳川家とモダ二ティ 近代の紀州徳川家が残したもの
  第15代 徳川頼倫 (明治5年・1872年~大正14年・1925年)   
     日本図書館協会総裁・史跡名勝天然記念物協会会長・侯爵
  ・8歳で田安徳川家より14代茂承の養子となる。
  ・久子と結婚後イギリスのケンブリッジ大学に留学
  ・紀州徳川家の蔵書10万冊を納める南葵文庫を建立。関東大震災後、東大図書館へ寄贈。
  ・皇居火災の折、赤坂邸を明治天皇へ献上。その後飯倉の屋敷に居住。敷地内には西洋造りの建物も
   作られた。
  ・現在の文化財保護法に繋がる、史跡や文化財の保護に尽力。
  ・頼倫公の茶室「高風居」は、現在三鷹の国際基督教大学に移築されている。

  第16代 徳川頼貞 (明治25年・1892年~昭和29年・1954年)
   ユネスコ国会議員連盟会長・全日本音楽協会会長・侯爵
  ・西洋音楽に造詣の深い音楽の殿様
  ・ケンブリッジ大学に留学、音楽の道を志す
  ・大正7年南葵音楽堂を建立。その開堂式では80名あまりの混成管弦楽団によるベートーベンの曲が演奏
   され日本文化への大貢献と評判をよんだ。座席数350名。高名な音楽家を招きしばしばコンサートを
   開催。
   地下の南葵音楽文庫に数多くの音楽関係の資料が収蔵されていた。現在和歌山県立図書館で公開中。
  ・大正7年6月、ベートーベンの第九がドイツ軍の捕虜によって徳島の捕虜収容所で日本で最初に演奏
   されたと聞き、その8月には徳島に演奏を聴きに行っている。
  ・大正9年日本初のアポット・スミス社製のパイプオルガンを設置。関東大震災で南葵音堂は壊れ、パイプ
   オルガンは東京芸大に寄贈された。
  ・2回目のヨーロッパ旅行の折、英国ジョージ5世に拝謁した。其の拝謁の前1週間、拝謁のマナー学校へ
   通ったという。
  ・プッチーニと会談した時に、彼の蝶々夫人のオペラの旋律は日本人としては違和感を感じるとコメント
   した折、中国のオペラの楽譜を頼まれたので帰国後送ったが、どうも届かなかったようだとのエピソード
   あり。

徳川宜子(ことこ)氏 経歴
  東京都出身。紀州徳川家19代当主。
  1977年東洋英和女学院短期大学英文科を卒業後、文化学院で建築を学び1981年卒業、同年大成建設株式
  会社入社。1985年大成建設の石橋利彦氏と共に株式会社石橋徳川建築設計所を設立。
  <著書>
   「建築家のワークスペース-VectorWorks製図ガイド」(石橋氏との共著)
   「相関のデイテール」(石橋氏との共著)
  <事務所の主な作品>
   ケルヒャ―ジャパン本社工場、千葉大学創造工学センター、米澤工機本社ビル、Ī邸、数寄屋橋公園内
   公衆便所、慈眼山成願寺、港南ビル、他

     頼倫公の茶室「高風居」
     高風居

    頼貞公「南葵楽堂」
     南葵楽堂

    徳川宜子氏講演
     徳川宜子氏講演



2017年7月講「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」

日時:7月29日(土) 午後3時~5時
場所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講師:宮川都吉氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊

 平成24年の8月講「江戸の酒」の講演で大好評を博した宮川都吉さん(発酵学のオーソリティー)に再登場いただき、「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」というテーマで話をしていただきます。沢山の発酵食品や藍染など、江戸時代の発酵技術について専門家の目でわかりやすく分析してくれます。

<七月講の内容について、演者より>
江戸連の皆様 

 七月講 講演者の宮川です。既にお知らせしてあるタイトルでは講演内容がうまく伝わらないと思われるため、現在準備中の内容をざっとお知らせします。七月講(7月29日)では、日本で独自の進化を遂げてきた「発酵」についてお話しします。多少の科学と、エピソードを交えつつ、次のような内容で分かり易く解説する積りです。

1. 麹について: 清酒、味噌・醤油等の醸造に重要な「麹」は、我が国で長年育まれてきた誇るべきレガシーである。最近の科学的研究から麹の凄さが明らかになったので、最新の知見を交えて解説する。高峰譲吉は百年以上前に、麹の強力な分解(消化)酵素に着目、胃腸薬「タカジアスターゼ」を日米欧で商品化し、世界的に「バイオテクノロジーの父」として崇められている。これを嚆矢とする「世界に冠たる日本のバイオテクノロジー」の一端を述べる。

2. うま味物質について: 昆布や鰹節のうま味は和食文化を支える重要な味覚であるが、馴染みの薄い欧米の学者は、うま味は日本人独特の不可解な感覚と長年無視してきた。最近うま味発現の科学的根拠が明らかにされ、ダシのうま味が世界的にも認知され、和食ブームを後押ししている。池田菊苗は百年以上も前に、昆布のうま味物質をグルタミン酸とつきとめ、「味の素」を商品化した。その後見いだされた物質を含め、今日うま味物質は日本のお家芸のバイオテクノロジーを駆使した発酵法で製造される。

3. 藍染について: 食品以外で発酵技術が利用された稀有な例として、藍染を取りあげる。藍(インディゴ)は化学的特性により、原理的に染色に大きな困難を伴うが、微生物の働き(発酵)を利用して、この問題を見事に解決している。

7月講風景

2017年6月講「広重に見る江戸の謎」

日時:6月17日(土) 午後3時40分~5時40分
場所:西荻南区民集会所 第1・2集会所(定員70人)
   〒167-0053 杉並区西荻南3丁目5番23号 03-3335-5444
   JR西荻窪駅南口より徒歩10分以内
   http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/katsudo/shukaijo/1006955.html
講師:竹村公太郎氏
   元建設省河川局長(著書『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫))
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:投扇興で馴染みの中華屋「新福來 阿佐ヶ谷本店」(別途割り勘)

※時間と場所が従来と違いますので、ご注意ください。

2017年5月講「江戸城の"歴史と植物"を探訪する」

開催日:5月27日(土)
集合場所:江戸城大手門(橋を渡り、鯱の説明板付近)
集合時間:午後1時半
行程:東御苑入園~百人番所~中之門跡~大番所~中雀門跡~果樹古品種園~富士見櫓~松の廊下跡~茶畑
   ~石室~竹林~天守台~北桔橋門~展望台~汐見坂~二の丸雑木林~二の丸庭園~菖蒲田~三の丸尚蔵館
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:ロンフービストロ 丸の内オアゾ店(会費一人4,000円)

今回のガイドは、会員の土屋繁さん(歴史担当)、麦野裕さん(植物担当)と圓山さん(補助)の3人です。

報告

 5月講は好天気と心地よい新緑の風とあいまって、絶好の散策日和になった。
大手門に入った辺りで36人が集合。歴史班(土屋氏担当)と植物班(麦野氏担当)の二班に分かれて出発した。百人番所~大番所~富士見櫓~松の廊下跡を見る。富士見多聞に入館出来たが、眼下に見える蓮池濠や紅葉山の様子から多聞下の城壁の急峻さが想像される。いよいよ天守閣跡へ。江戸城の中で最も高い場所に更に10数メートルの石垣を築いて、そこに5層の天守閣(約44メートル)が聳えていたという。江戸城を再建する会の理事でもある土屋さんの話に熱が入る。北桔橋(はねばし)門~汐見坂~二の丸公園などを散策。
ツツジ・コウホネ・菖蒲&杜若などが実に美しい。二の丸休憩所で二班が合流し、歴史&植物について活発な質疑応答がなされる。とりわけ天守閣の再建について沢山の意見が飛び出す。最後に三の丸尚蔵館を見学して4時頃お開きとなる。懇親会には15人が参加、いつものように話題満載の楽しい飲み会になった。(圓山)

 野生種を多く集めたバラ園、日本の古い品種のリンゴや桃など果樹を集めた果樹古品種園、竹林、雑木林、江戸時代の池泉回遊式庭園を復元したという二ノ丸庭園の水生植物など、麦野氏の案内で苑内の植物を見て歩いた。何度も訪れたことのある皇居東御苑だが、これほど多くの植物が観察できる場所であったことに驚かされた。多くの植物にはその名を記した標識がつけられており、植物の名を確認しながら散策できるのも魅力の一つだが、麦野氏の解説はそれぞれの植物の特徴をさらに気づかせてくれる。石垣に張り付くように生えたツルドクダミは薬用植物で城によく観られること、ミズキの仲間は導管が強く切れにくいこと、クロマツ・アカマツの松葉の断面は半円なので二本合わせると円になるが、同様に五葉松の五本の松葉の断面は五本合わせるとやはり円になること、アブラチャンは里山の植物の代表だが、名前の通り木の全体に油が多く含まれ燃えやすいこと等々、遊び心いっぱいのガイドであった。(松本)



報告

「十二支の役者見立絵」 学習院大学・東京外国語大学・東海大学ほか非常勤講師 藤澤 茜氏

【参考】藤澤茜 「十二支の役者見立絵」 (『二松学舎大学論集』59号 2016年3月)
Ⅰ 江戸時代における十二支
十二支は殷(前16~11世紀)の時代の中国で行われるようになったという。由来には諸説あり、月の名前に用いられたものとする説、または古代中国において惑星の中で最も尊いと考えられていた木星が約十二年で天球を一周することから、その位置を示すために天球を十二の区画に分け名前を付けたとする説などがある。「子」を鼠、「丑」を牛というように動物を当てはめたのは漢(前202~220)の時代とされ、諸地域に広がった。日本には6世紀に伝わったといい、正倉院の宝物にも十二支をモチーフにしたものが確認できる(十二支彩絵布幕・白石鎮子)。
時刻や方角を指す際にも十二支に当てはめる方法がとられるなど、日常生活にも浸透するようになる。

◆時刻◆
江戸時代は不定時法が用いられ、日の出、日の入りを昼夜の境として六つ時と数え、昼夜をそれぞれ六等分し、一刻(一時)と呼んだ。夏と冬では一刻の時間に差が出ることになり、江戸市中では本石町をはじめ複数の場所に「時の鐘」が設置され、正確な時刻が伝えられていた。時刻の呼称は二種類あり、九つ時から八、七、六・・と四つまでを二回繰り返して示す場合と、一日の十二刻を十二支に当てはめる呼び方とがあった。

江戸時代中期には、その干支にちなんだ動物の置物や飾り物を用いて、年神様として迎える風習も生まれた。また生まれ年とその年の十二支の動物の特徴を重ね合わせるという感覚も、江戸時代に生じたといわれる。十二支は仏教とも結びつき、例えば子は千手観音など、十二支ごとに守護本尊が定められ、江戸時代には民間信仰として広まったとされる。
方位と時刻
Ⅱ 浮世絵に見る十二支
①絵暦
絵暦

②十二支の動物を組み合わせる
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」

歌川芳虎画「家内安全ヲ守十二支之図」
歌川芳虎画「家内安全ヲ守る十二支之図」

③十二支をテーマにした揃物(12枚組のシリーズ物)

<動物自体を描く>
A 礒田湖龍斎画「風流十二支」安永2~4年(1773~75)中判錦絵 【図1】
<子ども絵>
B 石川豊雅画「十二支」1770年代 中判錦絵 【図2】※十二支と十二ヶ月をシンクロさせる
C 礒田湖龍斎画「風流小児十二支」安永2年(1773)頃 中判錦絵
【図1】A 礒田湖龍斎画「風流十二支」
礒田湖龍斎画「風流十二支」

【図2】B 石川豊雅画「十二支 丑 如月」 ※菅原道真
石川豊雅画「十二支 丑 如月」

【図3】N 歌川国芳画「武勇見立十二支 子 頼豪」
歌川国吉画「武勇見立十二支 子 頼豪」
<美人画>
D 礒田湖龍斎画「風流十二支」明和7~安永元年(1770~72) 中判錦絵
E 勝川春潮画「浮世十二支」寛政期(1789~1800)
F 「風流娘十二支」文化4年(1807) 中判錦絵
G 二代歌川豊国画「風流東姿十二支」 文政(1818~30)末
H 二代歌川豊国画「十二支全盛松の粧」 文政(1818~30)末
I 三代歌川豊国・万亭應賀「浮世十二支」弘化頃(1844~48) 小判錦絵
J 三代歌川豊国画「意勢古世身 見立十二直」弘化4~嘉永5年(1847~52) 大判錦絵
K 三代歌川豊国「艶姿花の十二支」元治元年(1864) 大判錦絵
<戯画>
L 歌川国芳画 「道化十二支」 天保12年(1841)頃 小判錦絵
M 歌川国芳画 「道外十二支」 安政2年(1855) 小判錦絵
<武者絵>
N 歌川国芳画「武勇見立十二支」 天保12年(1841)頃 大判錦絵 【図3】
O 歌川国芳画「英雄大倭十二士」 安政元年(1854) 大判錦絵
<役者絵・歌舞伎>
P 歌川国芳画 「美盾十二史」 弘化2年(1845)頃 大判錦絵
Q 貞信画(上方絵)「忠孝十二支之内」嘉永2年(1849)頃 中判錦絵
R 広貞画(上方絵)「見立十二支」  嘉永4年(1851)頃 中判錦絵二枚続
S 歌川国芳画 「見立十二支」  嘉永5年(1852) 大判錦絵
T 三代歌川豊国「擬絵当合十二支」嘉永5年(1852) 大判錦絵 ※文久元年(1861)の図も含む
U 国員(上方絵)「拾二支之内」  安政5・6年(1858・59) 中判錦絵
V 二代歌川国貞画「楽屋十二支之内(見立楽屋十二支之内)」万延元年(1860) 大判錦絵
W 芳瀧(上方絵)「見立十二支之内」文久2年(1862) 中判錦絵
X 広貞(上方絵)「十二支ノ内」元治元年(1864) 大判錦絵
Y 歌川国周画 「俳優見立十二支」 明治2年(1869) 大判錦絵
Z 歌川国周画 「奇術十二支之内」 明治10年(1877) 大判錦絵

Ⅲ シリーズごとの比較
例1)子  美人画=子の日の小松引き/武者絵=頼豪/役者絵=仁木弾正のイメージが強い・雪姫も
【図4】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」1

【図5】役者絵S「見立十二支」仁木弾正
役者絵S「見立十二支」仁木弾正

【図6】役者絵P「美盾十二史」雪姫
役者絵P「美盾十二史」雪姫

例2)巳  美人画=弁財天/武者絵=仁田四郎/役者絵=「伊賀越乗掛合羽」(巳年生まれ)・蛇遣い
【図7】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」2

【図8】役者絵S「見立十二支」
役者絵S「見立十二支」

【図9】役者絵T「擬絵当合」蛇遣い
役者絵T「擬絵当合」蛇遣い

例3)未 美人画=執事の御やかた/武者絵=関羽(典拠未詳)/役者絵=髪結い・未の刻・見世物
※紙を好んで食べることから、紙と関連づけて描かれる場合がある     「紙」と「髪」をかける
【図10】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」3

【図11】役者絵S「見立十二支」未の刻
役者絵S「見立十二支」未の刻

【図12】役者絵V「楽屋十二支之内」
役者絵V「楽屋十二支之内」

例4)戌 役者絵=南総里見八犬伝
【図13】役者絵V「楽屋十二支之内 犬」八犬伝 犬塚信乃
役者絵V「楽屋十二支内 犬」八犬伝 犬塚信乃

例5)酉 役者絵=鶏娘・酉年の守護神(不動明王)
【図14】役者絵S「見立十二支」酉 不動明王 ※前年上演の芝居
役者絵S「見立十二支」酉 不動明王
・最新の芝居=記憶に新しい芝居の見立で購買意欲をかきたてる
・「神の使い」という動物観もあったことがうかがえる

例6)亥 役者絵=「忠臣蔵」・摩利支天
【図15】役者絵S「見立十二支」摩利支天
役者絵S「見立十二支」摩利支天

◆「見立」の方法◆
・動物そのものが舞台に登場するもの(人間がその姿に変わる・・鶏娘)
・干支に関する行事・・初卯詣で など
・神仏に関する連想・・・酉年の守護神である不動明王・摩利支天 など
・刻限・・未の刻=阿古屋
・名前が重なる・・辰=お辰
・その年の生まれ・・巳=巳年生まれの血が眼病に効く



2017年3月講「春の隅田川桜見物クルーズ」

日時:3月25日(土) 午後2時~4時半 雨天決行
コース:品川天王洲ヤマツピア桟橋から隅田川スカイツリーコース往復(約2時間)
集合場所:京浜急行新馬場駅北口改札前
集合時間:午後1時半
参加費:一人6,000円(含む乗船券&スナック)
定員:55名(江戸連会員およびその家族優先)
その他:酒・つまみ持込み可、ただし食中毒は自己責任(江戸連でビールは少々用意)
参考:船会社(株)ジール クルーズ事業部(電話:03-3453-0423)、乗船名 ジークフリート
案内:新実正義

報告


東京湾隅田川スカイツリーコース(新実さん説明資料より)


乗船風景


新実さんの案内と資料の説明


展望デッキ


料理



報告

 江戸連会員で理事、「江戸がたり」の創始者であります寿々方さんの先祖を尋ねる軌跡の講演でした。父方の四代前の先祖が北海道の網元であったという寿々方さんは、大学の授業で聴いた「もしほ草。これは江戸時代に上原熊次郎有次という人が書いた、世界で初めてのアイヌ語の辞書です」との教授の言葉が、ずーっと頭の片隅に残っていました。やがて、父上も主だった親戚の方も亡くなってしまいましたが、先祖を調べ始めると、寿々方さんの五代前の父方の吉田家の始祖、吉田和右エ門が上原熊次郎の次男の鉄次郎で、吉田家に養子に入った人であることが判明、そこで本格的に上原熊次郎について調べ始めると、大変優れた人であることが明らかになってきました。熊次郎はアイヌ語の通辞であり、後にロシア語の通辞としても江戸時代後期に活躍した人物でした。冒頭に述べたように、「もしほ草」というアイヌ語の辞書を著し、アイヌ語研究の第一人者の金田一京助先生をして「ただ単語を最も多く最も精密に記録した語彙であるばかりでなしに、これによってアイヌ語の構造をも観ることを得べく、またその古文書・古記録にもあたる貴重なものである」「この人を仰いでアイヌ語の鼻祖とすること云々」「通辞の中でも出色の通辞だった」と手放しの称賛ぶりです。熊次郎は、当時北海道へ進出しようと接触してきたロシアとも関わりを持ち、中でも北海道に長期にわたり抑留されることになったゴロブニン事件に関して、常に温情を持って捕虜たちに接し、言葉の壁を乗り越えて、事件を解決に導いたようです。金田一先生は、この件に関しても熊次郎を高く評価し、「北門の功労者」と称えています。後半生は、その能力と功績を認められて江戸詰めとなり、天文方高橋作左衛門景保の手附として勤務したとのこと。最後に、後の資料から、熊次郎の死後、吉田和右エ門である鉄次郎が養家を離れ上原の名跡を継いだとあり、寿々方さんの父方の始祖の吉田和右エ門はその後、養子に入った人だと考えられるということでした。いずれにしても、寿々方さんのこの先祖を尋ねる講演で、江戸時代に活躍し、世にあまり知られていない素晴らしい人の事蹟を学ぶことができました。詳しくは、寿々方さんの著書『北門の功労者 アイヌ語通訳・上原熊次郎』をお読みください。

北門の功労者

2月講



2017年1月講「雑司が谷七福神めぐり」

 1月講は「雑司が谷七福神めぐり」です。雑司が谷周辺は日本ユネスコ協会連盟の「未来遺産」に指定され、「変わりゆく時代の中で、変わらないものの大切さを思いださせてくれるまち」として、様々な取り組みがなされているところです。七福神めぐりとしては歴史の浅いところですが、江戸時代の人気スポットである鬼子母神や雑司ヶ谷霊園(夏目漱石・中浜万次郎ほか)・旧宣教師館など見どころ満載のコースです。ガイド役は松本・圓山です。たくさんの連衆の参加をお待ちしています。

開催日:1月7日(土)
集合場所:地下鉄有楽町線「護国寺駅」1・2番出口方面改札口(池袋寄り・護国寺寄り)
集合時間:午後1時半
参加費:500円
コース:護国寺~清土鬼子母神(吉祥天。芭蕉句碑)~三角寛旧宅~雑司が谷旧宣教師館~雑司ヶ谷霊園(中浜
    万次郎・夏目漱石他。御鷹部屋の松)~清立院(毘沙門天。 雨乞いの松)~大鳥神社(恵比寿神)~
    本納寺(蜀山人の筆になる月花塚)~並木ハウス(手塚治虫)~雑司が谷鬼子母神~大黒堂(大黒天)
    ~観静院(弁財天)~法明寺~威光稲荷~中野ビル(布袋尊)~仙光寺(華福禄寿) 全行程4キロ弱
新年会:午後5時~7時「鳥貴族池袋東口店」 03-6914-1991(参加費 一人3,000円(呑み放題付き))

報告

 1月7日(土)13:30に有楽町線護国寺駅1・2番改札集合で新年恒例の江戸連七福神巡りの開始です。集まったメンバーは58名、2班に分かれそれぞれ圓山さん、松本さんのガイドで出発。
 天気に恵まれ、まずは護国寺へお参りし、側にある富士講の富士山に上り、いよいよ七福神巡りが始まりました。最初は清土鬼子母神にある吉祥天にお参り。この地で鬼子母神像が発見されたということや、鬼子母神が吉祥天の母親であるという案内に驚き、お参りして次へ向かいました。後は1月講の案内に紹介された道筋をたどって夕刻16:30過ぎに池袋駅前に着き、解散。

雑司が谷 がやがやお散歩マップ
未来遺産 雑司が谷 がやがやお散歩マップ

清土鬼子母神(吉祥天)   雑司ヶ谷霊園(夏目漱石の墓)
清土鬼子母神(吉祥天)    雑司ヶ谷霊園(夏目漱石の墓)

鬼子母神堂(大黒天)
鬼子母神堂(大黒天)

 懇親会参加者38名は懇親会場の「鳥貴族」に向かいましたが、まだ開店前で17:00まで店内で待機。その後いつものように談論風発、19:00解散となりました。



2016年12月講「投扇興と江戸の芸を楽しむ」

開催日:12月18日(日)
会 場:堀切菖蒲園静観亭
内 容:第一部 師走講「投扇興と江戸の芸を楽しむ」
    午後1時半~3時 投扇興
    午後3時~4時半 藤間信子さんの日本舞踊と長唄・端唄・小唄あれこれ、花伝亭長太楼さんの落語
    第二部 「忘年会」
    午後5時半~午後7時半
参加費:師走講のみは2千円。師走講および忘年会は5千円

報告

投扇興 自由参加。はじめに仲下さんからルールの説明があり、総勢25名の参加者が順次7回投扇して点数を競い、上位8名、圓山、仲下、村岡、坂本、三宮夫人、白石夫人、張さん、白石を選抜、準々決勝を行いました。次の準決勝は、三宮夫人対白石夫人と坂本さん対仲下さんの対戦。白石夫人と仲下さんが決勝に勝ち残り、二人の対決は白石夫人の優勝となりました。仲下さんより提供された「プーチンカレンダー」が賞品として、優勝した白石夫人、最高得点34点の三宮夫人、次点の坂本さんへ授与されました。

12月講
藤間流日本舞踊
最初に藤間信千鶴師匠「白扇(小唄)」、続いて藤間信子師匠「桃太郎(端唄)」、藤間信ゆう師匠「木遣ずくし(端唄)」、再び藤間信子師匠「都鳥(長唄)」とお三方の伝統的な、そして優雅な日本の踊りを堪能しました。二人の外国人留学生も大変興味深く鑑賞しており、日本の伝統的な芸が日常的に鑑賞できるのは素晴らしいとの感想を述べていました。
藤間信千鶴師匠 藤間信子師匠 藤間信ゆう師匠

落語「占い八百屋」 花伝亭長太楼さん
あらすじ:女中に邪険にされた出入りの八百屋が腹いせに主人の大事な徳利を水甕の中へ隠してしまう。後で、そろばん占いで水甕から徳利を見つけ出すと主人は大喜び、紛失物占いの先生となり、占い依頼が殺到。進退窮まった八百屋の運命や如何に! 追いつめられる八百屋の様子や、思わぬ幸運に恵まれ喜んだのも束の間、また新たな窮地に陥る八百屋の慌てふためく様子を、長太楼さんが、持ち前のソフトながら淀みのない独特の口調で語り、皆を笑いの渦に巻き込みました。
花伝亭長太楼さん

忘年会
「藤間流日本舞踊」の藤間信子師匠、藤間信千鶴師匠、藤間信ゆう師匠をはじめ「品川郷土の会」の坂本会長、「NPO法人 たのしいひととき出前どころ」の室尾理事長さんなど、会員外の方の参加も含めて総勢46名で和やか、かつ賑やかに行われました。